◎合楽理念を明瞭に正確に頂く。


昭和56年3月16日 朝の御理解              御理解 第7節                       「天地金乃神は昔からある神ぞ途中から出来た神でなし、天地は流行る事なし、流行る事なければ終りもなし、天地日月の心になる事肝要なり、信心はせぬでもおかげはやってある。」      


 「天地日月の心になる事肝要」ここに合楽理念の芯どころというのがあるわけですが、おかげを受けるという事、合楽理念をもってするといわゆる簡単です・明瞭です、おかげが確かですというような、まあいわゆる合楽のキャッチフレーズですけれども、確かにうそではない。嘘ではないけれども、いよいよ合楽理念を基にして何々は合楽理念をもってする他はないと、総ての事に何々は合楽理念をもって以外はないという信心を、身につける明瞭にしていくという事は、容易い事ではないとこう思うです。
 おかげを受ける事はです。例えば合楽で云われる、親先祖を本気で大切にする気になれとか、成り行きをいよいよ大切にもうこんな容易い事はない。もうどんなに歯がゆい事があっても、どんな時があっても兎に角それを黙って治める生き方、「それは一つ覚えて帰りなさい」と「はあそうですか」というてそれを行ずる事によって、確かにおかげはもう、いうならそのてきめんに現われてくる、実験実証が出けるという事は簡単です。けれどもそれをいよいよ私共のOOは合楽理念をもってする他はないという、いわゆる合楽理念のマスターであり・合楽理念の実験であり・実証という所まで、おかげを頂いてまいります事はです、絶対の助かりが約束される替わりに、絶対のやはり、マスターであり、いうなら合楽理念が血に・肉になってしまわなければならない。
 そこにはならそれを本気で私共が勉強しよう・実験しよう・実証して行こうという気になれば誰でも出けるのだと。難しい火の行・水の行せんならんという所が一つもない。そういう例えばなら人間の一ばん大切な生き方をしかも、確かに教えていくのが合楽理念ですけれども、それを確かに自分のものにしていっておるという人は、いくらもはないのです。
 昨日はあのように信徒大会で昨日はもう東京・岡山・山口・広島・四国・九州はもう、各県から合楽信者・信奉者がの、皆ではありませんけれども、代表的な方達がいっぱい集まられての大会でした。
 だからあれだけの人達が本当にOOは合楽理念をもってする他はないというような、合楽理念をマスターして合楽理念とはかくだ、しかも確かに前代未聞の教えであり、確かな人間らしゅう助かっていける手立てだというふうに確信が出来、それを確認している人があれだけ人数、五百名なら五百名集まってたとしてです、その人が頂いておったらすばらしい合楽の、比礼という事になるだろうとこう思いましたけれども、実際は私は本当にそれをおかげは頂いております、簡単にけどもそれを明瞭にして、それを自分の血に肉にしていっておるその事を願いとしておるという人は、実に少ないんぢぁないかと思うんです。
 今朝方からお夢を頂いたんですけれども、『合楽の総代幹部菊栄会の方達のいうなら合楽での幹部と云われる人達がまあ、十四・五人か二十人位まあ研修に行っておるようですね。研修旅行をやっている。でその晩泊めてもらはなければならない旅館というか・料亭というか、そこが元、昔は遊廓の後らしいんですね。皆さんも御承知でしょうけれども遊廓は、兎に角あの入り口の所を非常に見事にすばらしくいわば構えがねいいです。
 ですからまあここは立派な旅館、料亭旅館だからというてそこに皆が入っておるんです。二階か三階の所、それで私が一ばん最後そこを上がっていくんですけれども、その梯子、ほうこげん高いしかもこげんギイギイいうごたる梯子ん段を、料理なんかを運ぶのが大変だろうと思いながら、上がっていって、そして入り口はすごく立派ぢぁったけれども、何かどの部屋もどの部屋も不潔な感じのある、ある一部屋に合楽の信者幹部の人達が皆部屋に入っておりました。
 何か床の落ちそうな感じの不潔な感じでしたな感じの所で、座わっとる人もありぁ、横になっとる人もある。まああぐらをかいとる人もあると。いうならば研修旅行という名のまあ、物見遊山というでしょうかね、研修旅行と銘うっておるけれども、実際はまあ慰安旅行のような感じですから、それはそれでいいのです。寝とっても転んどってもいいのですけれども、そんあまりにも、そしてその女中さん達もやってこんし、お茶が出とるわけでもないから、どうしてサービスの悪か所ぢぁろか、入り口はよかったばってん中はこんな状態の所にと思うておる、けれども皆がそれぞれの表情を見てみると、まあこれでも黙って治めていくのが信心だといったような顔をして、寝たり転んだりしてるわけです。
 そして目が覚めてから、あら不思議なお夢ぢゃ、不思議なちいうが、みょうなお夢ぢぁったが、どういうこっじぁろうかと思うたら、『人間が角を生やしてその角をね、丸めておる所を頂いたんです。こう角ちゃ尖っとるとがその尖っとる所を丸めておる。
 例えば合楽理念をもってする頂き方というのは、例えば成る程黙って治めよとね、天地日月の心というのはまあ美しい心、まあ黙って一切を修行として受ける、又は黙って合掌して受けるという生き方なんですけれども、心ん中ぢゃこげんサービスの悪かこげな汚い部屋に通して、そしたら誰かがよか部屋が一部屋あったそうですけれども、先客があってそこが使えないから仕方が無いといったような事を、誰かが云っているんですよ。それも元遊廓に使っていたというようなお家ですから、何んとはなしに不潔な感じの部屋ばっかりなんです。
 それでもまあ黙ってる事が信心だというふうにして、寝たり転んだりしながら、まあ黙って治めていこうというような感じですけれども、私はそれをその最後に角を丸めておるという、角が出ておるのもただ丸めておるのも、腹をここで立てちゃばからしかと云ったような意味でもですね、本当に有難く腹を立てんですむ、有難く黙って治められるで、もうこれ神様の御都合にちがいないという頂き方での黙って治めるでなからなければ、値打ちはないです、心ん中でぶつぶつ云いながら折角遊びに来とるとに、こんな汚ならしい部屋でとそしてお茶一ぷく出さんと、それでもやっぱ黙って治めるのが信心だというような顔をして、なら姿勢というか態度というのは、寝たり転んだりしてそのまま料理の上がってくるのを、待っておるといったような感じの中からです。
 私は天地日月の心になるという事を、ひとつ間違えたり頂きそこなうと、とんでもない事になるなぁと云うなら、だらしがない。いうならば何んと申しますかね、長いものには巻かれよといったような、その黙って治めるというような事でもです、心にはぶつぶつ云い角は出しながら、その角をこうやって丸く、はあここで角を突きやってはバカらしいといったようで、角を丸めておるといったようなものではいけない。
 合楽にはどこまでもいわゆる最近云われる神様の御都合を頂くか、でなかったらその事をほんきできちっとした、いうならば姿勢で態度でね、黙って受けるという生き方。いうならば信心研修という名の遊びではなくて、もういついつもどこででも研修の心の状態というものがあっての、黙って治めるでなからなきゃいけない。まあだらしがないのが円満であるという事ではない。どこまでもいうならば和賀心で黙って治める、天地日月の心でなからなければならないという事を、今日そのお夢の中から改めて頂いた。
 してみると合楽理念を本当に、どのような場合でもどのような時でも、生き生きと生かして、表わしていくという事は、いわゆるこれを明瞭にするという事は、昨日あたりのように、沢山な人が集まってなら合楽理念の未来像を求めてというスローガンにありますように、本気その合楽理念の未来像を求めて、自分達が合楽理念を本気でマスターしてそしてそれを、子にも孫にもいよいよこんなにすばらしいもんだという事を、伝えていく事の為にも少し本気で明瞭にしておかなければならんのではなかろうか、本当にもっと正確なものでなからなければいけんのではなかろうかと、いうふうに思います。
 夜は昨日は富久信会でした。そんなわけで遠方から来ておる方はやっぱ連れがあったから、残っておる人も少なうございました。けれども七・八名の方が発表致しました、その一人一人に私は思いました事でしたけれども、やはり富久信会の方がもう一辛抱として、残られた方達だけだからさすがにすばらしいお話。すばらしいお話ばかりでした。本当にあの今日の皆さんの発表は、成る程合楽理念を元にしての商売をして、始めて生まれてくる答というものをです。良い事悪い事につけて合楽理念に基づくからこそ、そういう体験が生まれてくるんだねというて、まあお話をさせてもらい、又皆さんのお話を聞かして頂いた事ですけれども。
 昨日一ばん最後に高橋さんが、昨日は皆お弁当持ちでしたけれども、お弁当持って来てない方の為に、お弁当を百五十、三福寿司で注文してあったそうです。所がどういう間違いか百四十七しか来てなかったというのです。麻生さんがそれを受け持ってくれたそうですけれども、丁度百四十七でよかったと、百五十来とったら三つ余る所じぁったというお話を、高橋さん・麻生さんから聞かせて頂いて、いつもの事ながら間違いのない事だなあと思うたという発表というわけではないけれども、そんな話をしておられました最後に、それを聞きながら私は思うんですけれどもね、それがほんなら合楽を中心にして行なわれる行事の事だけじぁない、三福寿司のいうならば、本店支店従業員一同の上にでもそれと同じような働きがいつもおきてき、いつも頂けれる所の正確さを持つものでなからなければならないなあという事を思いました。
 合楽を中心にという時には、そこに合楽の特別な働きがあるから、そういうきちっとしたおかげを受けた事になるけれども、それを各々の所でも各々のお店の場においても、そういう働きがいつも頂けれるような信心。そこにもっともっと合楽理念をの、いうなら明瞭化というかね、もちっと深さ・広さに触れてそれを確実にただ黙って治めりあええといいながら、それこそただ角を丸めておる程度の黙って治めるといったような所があるとじぁないだろうかね、例えば私がお夢ん中に現われてくるその店のサービスの、悪さとか・汚なさとかそういうような事でも、まあここは云うちゃならん、これが合楽理念といったような間違い、いうなら姿勢もは、それを本当になら受けようという姿勢も構えも作らずに、ただ寝たり転んだりでそういうふうに云うたり・思うたりしておる事では、合楽理念には劣るという事です。私共のいわゆる信心生活・合楽理念に基づく生き方の中にそういう所があるのではなかろうか。
 結局黙って治める天地日月の心というても、その天地日月の心で行じられる事その事が、有難いと分からしてもらえるような信心を、いよいよ確かなものにしていくという事にするという事は、そういう所を気付かせて頂くという事ではなかろうか。ただ馬鹿になっときぁよいというその内容がね、そうこういう中に馬鹿になって・阿呆になって居れるという事が、合楽理念のおかげであり有難いというような答えの出てくる、黙って治めるであり、馬鹿と阿呆になるというのでなければ、本当な事ぢぁないというふうに思います。というように、いうなら例えば天地日月の心になる事肝要という、簡単な御教えを本当に自分のものにして、それこそ一分一厘間違いのない働きがおこってくるようなものにしていく事の為には、もっともっというなら明瞭に頂いていく所が欠げているのではなかろうか。
 そしていうならば合楽理念がこんなにもたしかな間違いのないもんであるという事を、誰にでも伝えていけれる。
 昨日集まった大会の人達がもし今日私が申しますような、合楽理念をもってする他はないと云えれる、断言出けれるような内容をもったら、合楽のいうなら比礼はもっともっと大変な働きになる事であろうというふうに思いました。
                                          どうぞ